Chapter 3 「孫の力」
あの日の台所
面会謝絶のICUを、治療の同意書へのサインという形で訪れた。遠方から駆けつけた孫に会わせたいとお願いすると、ドクターが許可を出してくれた。
父は息子の姿を見つけると、「あ、おおおおおおお」と声を上げて手を伸ばした。左手で息子の手を力強く握り、麻痺が残る腕を懸命に持ち上げて、息子の頬を伝う涙を拭おうとした。そして涙が止まらなくなった息子の頭を、そっとなでた。
通りがかったナースが、嬉しそうに見ていた。「お孫さんの力はすごいですね」と。
母が余命を宣告されたとき、私はオーストラリアにいて、息子はアメリカにいた。
コロナ禍のあの時期、国境を越えることは今とは全く違う意味を持っていた。出国許可の申請、限られた航空便、片道150万円近いチケット、到着後14日間の隔離。それでも間に合わなかった。母の葬儀には、出席できなかった。
海外で生活するということは、親の死に目に会えないかもしれないという覚悟を、常に抱えて生きるということでもある。
最後に母に会ったのは2021年1月、コロナが始まる直前のことだった。日本出張で京都を訪れた際に、姉が両親を連れてきてくれた。会社への休暇申請は却下されていたけれど、5日間の滞在中、1日だけ家族みんなで京都を歩いた。それが最後の旅行になった。
息子にも、同じ後悔があった。
アメリカの新政権が外国人へのビザ規制を強め始めた時期、息子も自由に国外へ出られる状況ではなかった。出国したら再入国できないかもしれない — そんな不安を抱えながら、それでも荷物をまとめ、想像を超える金額のチケットを手に入れて飛び立った。移動途中でコロナに感染し、2度のフライト変更を余儀なくされながら。
アメリカからの到着便は、そのまま隔離ホテルへ直行だった。2週間、場所も時間も予定もわからない部屋の中で過ごした。
私自身もオーストラリアからの入国者として、自宅隔離の14日間があった。GPSで行動範囲を管理され、1日数回ランダムにかかってくる電話に応答し、位置情報を確認される日々。その14日間が終わるまで、公共交通機関にも乗れない。空港からの移動手段を探したが、レンタカーはどこも借りられなかった。空港で一晩を過ごすしかないと諦めかけたとき、姉が往復9時間の道のりを車で来てくれた。深夜の到着ロビーで姉の顔を見たとき、言葉が出なかった。
息子の状況はさらに厳しかった。だから、こんどは私が成田空港へ迎えに行った。往復9時間の道のりを、母のことを思いながら、お互いがくぐり抜けてきた日々を、泣きながら話した。とにかく、久しぶりに親子が同じ場所にいられた日だった。
あの後悔を、繰り返したくない。
「あの時もしも」を、もう一度やりたくない。
だから今、二人はここにいる。
….to be continued